昭和39年(1964年)6月16日、午後1時すぎ、新潟県の粟島南方沖を震源とするM 7.5の大地震が発生した。「新潟地震」である。この地震は新潟、秋田、山形の各県を中心に被害があり、死者26名、家屋全壊1960戸、半壊6640戸、浸水15298戸などとなったものである。その他船舶・道路の被害も多かった。

新潟市内では「傾いたビルからの火災発生」「昭和大橋の橋桁落下」「一昼夜以上にわたって燃え続けた昭和石油のタンク」「土台ごとひっくり返った県営アパート」「水浸しの空港」「信濃川の大逆流」「国体競技場施設の崩壊」といった惨状を呈した。

新潟国体が一週間ほど前に終了したばかりであり、もしも期間中であったなら、大混乱になることが予想され、不幸中の幸いというところであった。この地震では予想以上の流砂現象がみられた。また津波が発生し日本海沿岸一帯を襲い、新潟県沿岸では波高4mに達した。そして震源付近の粟島が約1m隆起した。
                   


その日は、すでに梅雨入りしていたと思うけれども、穏やかな日和であった。いつものように天気図にデータを記入するプロット作業にとりかかったばかりであった。毎日が同じ作業の繰り返しではあったが、日々変化する気象現象を追跡すること面白い仕事でもあった。

突然、何の前触れもなく大音響が辺りを襲った。何か巨大な物体がすぐ近くに落下したと一瞬感じた。と同時に突き上げるように床が持ち上がったかと思うと、建物が大揺れとなって、窓枠からガラス窓がはずれて、ガラスの破片が飛散した。“地震だ!外へ出ろ!”と誰かが叫ぶ。下っ端の私の席は入り口近くである。なりふり構わず外へ飛び出したのである。夢中であった。外へ出ると、木造の庁舎は倒れんばかりに揺れている。このまま此処にいては、倒れてきた建物の下敷きになるおそれもある。安全な場所をと考えて、庁舎の裏にあるテニスコートへ逃げることにした。

走りながら百葉箱のある露場の方をチラリとみると、緑鮮やかな芝生が裂け、その先端から30cmほどの高さで黒っぽい水を吹き上げながら裂け目が進んでいる。初めて目にする光景である。この世の終わりといえば大げさすぎるが、異常な事態が発生したことには間違いなく、言えしれぬ恐怖が襲ってきた。

何処をどう走ったかはよく覚えていないけれども、とにかくテニスコートへ出た。すでに逃げ足の早い何人かがいた。コートはまるで土用のうねりが押し寄せる海面のように波打っている。そして横に立っている電線の鉄塔がまた大きく揺れている。此処も危険である。

それならば前の信濃川の堤防に逃げようか、しかしそれは構内から外に出てしまうことになって、職場放棄である。後で何を言われるか分からない。意気地なし、臆病者のレッテルを貼られることにもなりかねない。


それから二時間ほど経ってからだ、“津波が来るぞ!”と叫びながら誰かが走り回っている。地震後に、「信濃川の流れがいつもより速くないか」という同僚もいた。津波と言えば川の逆流しか考えられない。

今度は地面にいては危ない。実際にどのあたりまで逆流してきているのかも分からない。一刻の猶予もできない。今度は風力塔に逃げることにした。前よりは幾らか冷静になっていた。此処にも相変わらず逃げ足の速い数人の職員が、物見高く位置どりをしていた。

川下の方を見ると、港近くの貯木場から流れ出た木材を波頭に乗せて川が逆流してくる。まだ距離があるので、木材がマッチ棒のように見える。しかし、徐々に近づいて来る。そして波頭の木材が、車の前輪のように回転しながら、しぶきをあげて気象台の前を上流に向かって通過した。

逆流する波は、あまり高くない堤防を越えて構内に流れ込み、傾いた庁舎一階の全ての床上に浸水した。機器の一部には使用不能となってしまったものもある。水が引いた後には薄い泥の層が残り、その上に数匹の小魚が横たわっていた。

気象官署の予報や観測の現業部門はどこでもシフト勤務である。昼も夜も交代で勤務する。この傾いた建物の中で仕事をしているうちに、頭痛の症状を訴える者が多くなってきた。特に夜勤者に多かった。床が水平でないことは、かなりの疲労を伴うことでもあった。その後、半年か一年だったか忘れてしまったが、同じ構内に鉄筋二階建ての庁舎が完成して移ってからは、頭痛の症状を訴える者はなくなった。

結局、一番安全な場所は露場かもしれない、と判断して引き返した。露場は裂けた芝生の間から、液状化現象で吹き出した砂と泥水が方々に点在していた。気が動転し右往左往して逃げ回った時間は、わずか数分にすぎないけれども、いま思えば息を切らしてかなりの時を走り回っていたような気がする。

気象台は信濃川の川縁に建っていたが、そのあたりは昔の河川敷である。地盤が軟らかい。揺れが収まると平屋建ての庁舎は、北の端にあった玄関が1mも沈下して、建物が傾いていた。しかし、幸いにも倒壊は免れたのである。


話は元に戻って、その日の帰宅がまた大変であった。当時、新潟の北25km程のS市に住んで電車通勤をしていたのであったが、鉄道や市内の幹線道路は通行止めになってしまった。交通機関は利用できない。しかし郊外まで歩けば何とかなるだろうと徒歩で北に向かった。

街は人で溢れていた。普段の何倍もの人出である。みなせわしなく歩いている。家路を急ぐ人混みである。「阿賀野川の橋が落ちた」という声が耳に入った。この橋が落ちたと言うことは、帰宅の方法がなくなったと言うことである。職場へ引き返そうかと大いに迷ってしまった。しかし4〜5kmも歩いて、せっかく此処まできたのだから、自分の目で確かめようと歩き続けることにした。橋は落ちてはいなかった。車も通っている。落ちたというのは、混乱に乗じて飛び交う流言飛語であった。

あとは乗せてもらえる車だ。荷台に人を乗せた車が追い抜いて行く。ヒッチハイカーよろしく親指を立てても、みんな素通りして行く。それなのに少し前を歩いている若い女性の横には停車している。歩いているのは圧倒的に男だ。むべなるかなである。誰も拾ってくれなければ、あと20km程の道のりである。家まで歩こうなんてとても無理だ。空腹もあいまって足取りは重い、そして夕焼けが妙に赤いという感じがした。しかし十何台目かに、親切なオジサンの運転する軽トラックが横に止まり、荷台に乗せてくれて、家の近くまで送ってもらってようやく帰宅する事ができたのであった。辺りはすでに夜のとばりに包まれていた。

翌朝がこれまた大変である。電車やバスは動かない。出勤の手段がないのである。かといって休む訳にはいかない。災害時にこそ働かなければならない職場である。そこで夜の明け切らぬ未明に起床して、飲み水を入れた一升瓶と握り飯とを持って、自転車で家を出たのである。

こうした未明に家を出る自転車出勤は、鉄道の復旧で二日間だけで終わった。しかし被害状況等の調査で、職場はしばらくの期間は多忙をきわめることになる。

地震の発生したこの付近は、過去百年間には大きな地震が発生していない。いわゆる地震の空白地帯であった。エネルギーが溜まっていたのである。巨大地震は恐ろしい。発生時のあの轟音と、波打つ地面のありさまは終生忘れることができない。

(江川 浩一)

写真提供     新潟地方気象台